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2017年08月31日
木曜日
記憶の中の浦和空襲とその後(2017年8月28日) ( 教室通信 )
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8月は、2度と戦争の悲惨を繰り返さないことを確認する月だと考えています。
ぼくはだれかの背中におぶさりながら、大人たちが必死になって防空壕(ぼうくうごう)を掘っている
のをみていました。これがぼくの2歳になる直前の人生最初の記憶です。後から調べると、1945年4月12日に県庁付近の空襲があったころのはずです。その小さな防空壕に隣家とわが家の家族が入ったころ(5月25日)、北隣の家を焼夷弾が直撃しました。真っ赤に燃える炎を見たのと「出るな」という叫び声が記憶に残っています。その家の4人家族は全員亡くなったということを何年か後に聞きました。ほんのわずかの偶然でその家族が亡くなり、ぼくはこうして70年の時を生きています。
ぼくの家には、近くの旧制浦和高校の生徒が何人か下宿していました。その人たちが延焼を防ぐために家々に水をかけていたそうです。
終戦の時の記憶はありません。ただ、家財道具といっしょにリヤカーに乗せられ、母・祖母といっしょに上尾まで行った記憶があります。たぶん東京に大きな爆弾(原爆)が落ちるかもしれない、という情報があったのでしょう。
4歳のとき、海軍軍医将校だった父が帰還しました。門から入るなり持っていた指揮刀を石に叩きつけて折り、ぼくをジロッとみて「おまえが一夫か」といいました。それが父との初対面の記憶です。戦場の記憶は、その後も生涯にわたって父を苦しめたようです。軍医であった父が見たものが語られることはありませんでした。
終戦後、現在のさいたま市役所の向かいに進駐軍埼玉地方本部があり、母の実家も近く、付近にはアメリカ軍将校の家がいくつもありました。3歳年長のジョージという少年の家に遊びに行った記憶があります。親たちにはそこに行くことを禁止されていましたが、4歳のぼくにとって何もかも珍しい世界でした。そして、別所沼の高台にあった巨大な防空壕跡は、小学生になったぼくたちのダンジョンとして冒険遊びのまさにテーマパークになりましたが、大人になって振り返ると、そこは多くの爆死者の恨みがこもったような風景でした。
小4のとき、みんな貧しい子どもたちの中でひときわみすぼらしい服装をしていた女の子が、ある日とつぜん黒塗りの乗用車で送られてきて、黒いビロードの服、大きなリボン、革靴という姿で校門から入ってきました。先生方も含めみんなが息をのんで見つめていました。これは、その前年に始まった朝鮮戦争で父親が大もうけしたのだという話を聞きました。戦争で得をする人がいるのだということを知った記憶です。
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